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木陰に消えた二人

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-10-13 07:06:36

「エレノア! いい加減にしろ!」

 ヴィンセントの怒声が、寝室に響き渡った。

 エレノアは寝台のそばに立ったまま、夫を見つめていた。

「何度おっしゃられても、私の答えは変わりませんわ」

「お前は私の妻だろう! 夫婦の務めを拒むなど、許されると思っているのか!」

「許していただくつもりはございません。私は嫌だと申し上げているのです」

 ヴィンセントは苛立たしげに舌打ちした。

「まったく、くだらない意地を張りおって!」

 そう言うなり、エレノアの腕をつかんだ。

「……っ!」

 強引に引き寄せられ、エレノアは思わずよろめいた。

「離してください!」

「お前には公爵家の跡継ぎを産む義務がある!」

 ヴィンセントは構わず、エレノアを寝台へ連れていこうとした。

 その瞬間、前の人生の記憶がよみがえった。

 愛情のない夜。

 どれほど嫌でも、夫の求めを拒めなかった日々。

 ようやく授かった子供を失っても、労わりの言葉ひとつかけてもらえなかった。

 あんな人生を、もう一度繰り返すなんて。

「嫌です!」

 エレノアは必死に腕を引いた。

「離して! お願い!」

「エレノア!」

 ヴィンセントがさらに力を込めた、そのときだった。

「公爵閣下」

 低い声が響いた。

 振り返ると、開いた扉の向こうにテオドールが立っていた。

「……何だ、お前は」

「エレノア様の護衛騎士、テオドール・グレイでございます」

「知っている。何の用だ!」

 テオドールは静かに頭を下げた。

「恐れ入りますが、エレノア様をお放しください」

「何?」

「エレノア様が嫌がっておられます」

 ヴィンセントの顔が怒りで赤く染まった。

「貴様、誰に向かって口を利いている!」

「承知しております。ですが、私はエレノア様をお守りするよう命じられておりますので」

「夫である私から守るというのか!」

 テオドールは一瞬だけ沈黙した。

 そして、まっすぐにヴィンセントを見つめた。

「エレノア様が助けを求めておられる以上、相手がどなたであっても同じことでございます」

「……貴様!」

 ヴィンセントが声を荒らげた。

 だが、テオドールは動じなかった。

「閣下。今夜はどうぞ、お引き取りください」

 静かな声だった。

 それなのに、不思議なほど有無を言わせない響きがあった。

 ヴィンセントはしばらくテオドールをにらみつけていたが、やがてエレノアの腕を乱暴に放した。

「……いいだろう」

 吐き捨てるように言う。

「だが、覚えておけ。お前は私の妻だ。いつまでもこんなわがままが通ると思うなよ」

 エレノアは答えなかった。

 ヴィンセントはもう一度、二人をにらみつけると、荒々しい足音を立てて出ていった。

 扉が閉まった途端、エレノアの膝から力が抜けた。

「エレノア様!」

 テオドールが駆け寄ってくる。

「お怪我はございませんか?」

「……大丈夫よ」

 そう答えたものの、声が震えていた。

 つかまれた腕が、まだ痛む。

「申し訳ございません。もっと早くお止めできれば……」

「いいえ」

 エレノアは首を振った。

「あなたが来てくれなかったら、どうなっていたか……」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 テオドールは何も尋ねなかった。

 ただ、エレノアが落ち着くまで、静かにそばにいてくれた。

「ありがとう、テオドール」

「礼には及びません。私はあなたの護衛騎士ですから」

 その言葉に、エレノアはようやく小さく微笑んだ。

   ◇

 しばらくして、エレノアは窓辺に立った。

 寝室の窓からは、公爵家の広い庭園が見渡せる。

 夜の庭は月明かりに照らされ、木々の影が長く伸びていた。

 ふと、人影が目に入った。

 ヴィンセントだった。

 どうやら、怒りを鎮めるために庭へ出たらしい。

 エレノアは何気なく、その姿を見つめた。

 すると、別の人影が近づいてきた。

 淡い色のドレスをまとった女性。

 リリアーナだ。

 彼女はヴィンセントのそばに駆け寄ると、何かを話しかけた。

 ここからでは声は聞こえない。

 けれど、ヴィンセントがひどく不機嫌そうにしているのはわかった。

 リリアーナは、そんな彼の腕にそっと手を添えた。

 何度もうなずきながら、優しく語りかけている。

 やがて、ヴィンセントの表情が和らいだ。

 リリアーナが微笑む。

 ヴィンセントも笑った。

 つい先ほどまで、妻にあれほど激しい怒りをぶつけていた男が。

 エレノアは、呆れたように息を吐いた。

 すると、リリアーナがヴィンセントの胸に身を寄せた。

 ヴィンセントは彼女の腰に腕を回し、顔を近づける。

 二人の唇が重なった。

「……まあ」

 エレノアは思わずつぶやいた。

 まさか、こんな場所で。

 公爵家の庭園とはいえ、使用人が通りかかることもあるだろう。

 だが、二人は周囲など気にしていないようだった。

 リリアーナがヴィンセントの手を取った。

 そして、庭園の奥へと歩き始める。

 そこには、大きな木があった。

 枝葉が広がり、月明かりさえ届かないほど濃い影を落としている。

 二人はその木陰へと入っていった。

 ヴィンセントがリリアーナを抱き寄せる。

 リリアーナが彼の首に腕を回した。

 そして、二人の姿は重なり合うように、暗がりの中へ消えていった。

 エレノアは、静かに窓から離れた。

 その先で何が行われているのか、わざわざ確かめる気にはなれなかった。

「……気持ちが悪いわ」

 口からこぼれたのは、そんな言葉だった。

 妻には跡継ぎを産む義務があると怒鳴りつけ、拒絶されれば力ずくで従わせようとする。

 それなのに、義妹の前ではあんなにも優しい顔をするのだ。

 しかも、妻に拒まれたその足で、今度は義妹を抱き寄せている。

 あまりにも節操がない。

 何より、あの二人には恥じる気持ちというものがないのだろうか。

 前の人生では、ヴィンセントとリリアーナの関係を知るたびに、胸が張り裂けそうになった。

 どうして私では駄目なの。

 どうしてあの人ばかり愛されるの。

 そんなことばかり考えていた。

 けれど、今は違う。

 もう、あの男に愛されたいとは思わない。

 むしろ、二度と触れられたくなかった。

 エレノアは、つかまれた腕をそっとさすった。

 まだ、指の跡が赤く残っている。

 これが、夫の言う愛情のない結婚なのだ。

 妻を傷つけても何とも思わず、義妹との逢瀬には夢中になる。

 こんな男のために、五年間も人生を無駄にしたなんて。

「……今度こそ、絶対に」

 エレノアは小さくつぶやいた。

「あなたの思いどおりにはならないわ」

 ただし、今夜のことでひとつ、はっきりしたことがある。

 ヴィンセントは、エレノアの拒絶を簡単には受け入れない。

 テオドールが守ってくれたからよかったものの、いつまでも彼ひとりに頼るわけにはいかなかった。

 公爵家の主人であるヴィンセントが本気になれば、テオドールを解任することさえできるのだから。

 エレノアは机に向かった。

 引き出しから便箋を取り出し、ペンを手に取る。

 宛先は、ヴァレンティア伯爵。

 自分の父親だった。

 前の人生では、心配をかけたくない一心で、実家には何も知らせなかった。

 だが、今度は違う。

 夫から身を守るためには、味方が必要だった。

 エレノアは静かにペンを走らせた。

 ――お父様。折り入って、ご相談したいことがございます。

 そして、少し考えてから、次の一文を書き加えた。

 ――どうか、ヴィンセント様には内密に、お会いできないでしょうか。

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