LOGIN「エレノア! いい加減にしろ!」
ヴィンセントの怒声が、寝室に響き渡った。
エレノアは寝台のそばに立ったまま、夫を見つめていた。
「何度おっしゃられても、私の答えは変わりませんわ」
「お前は私の妻だろう! 夫婦の務めを拒むなど、許されると思っているのか!」
「許していただくつもりはございません。私は嫌だと申し上げているのです」
ヴィンセントは苛立たしげに舌打ちした。
「まったく、くだらない意地を張りおって!」
そう言うなり、エレノアの腕をつかんだ。
「……っ!」
強引に引き寄せられ、エレノアは思わずよろめいた。
「離してください!」
「お前には公爵家の跡継ぎを産む義務がある!」
ヴィンセントは構わず、エレノアを寝台へ連れていこうとした。
その瞬間、前の人生の記憶がよみがえった。
愛情のない夜。
どれほど嫌でも、夫の求めを拒めなかった日々。
ようやく授かった子供を失っても、労わりの言葉ひとつかけてもらえなかった。
あんな人生を、もう一度繰り返すなんて。
「嫌です!」
エレノアは必死に腕を引いた。
「離して! お願い!」
「エレノア!」
ヴィンセントがさらに力を込めた、そのときだった。
「公爵閣下」
低い声が響いた。
振り返ると、開いた扉の向こうにテオドールが立っていた。
「……何だ、お前は」
「エレノア様の護衛騎士、テオドール・グレイでございます」
「知っている。何の用だ!」
テオドールは静かに頭を下げた。
「恐れ入りますが、エレノア様をお放しください」
「何?」
「エレノア様が嫌がっておられます」
ヴィンセントの顔が怒りで赤く染まった。
「貴様、誰に向かって口を利いている!」
「承知しております。ですが、私はエレノア様をお守りするよう命じられておりますので」
「夫である私から守るというのか!」
テオドールは一瞬だけ沈黙した。
そして、まっすぐにヴィンセントを見つめた。
「エレノア様が助けを求めておられる以上、相手がどなたであっても同じことでございます」
「……貴様!」
ヴィンセントが声を荒らげた。
だが、テオドールは動じなかった。
「閣下。今夜はどうぞ、お引き取りください」
静かな声だった。
それなのに、不思議なほど有無を言わせない響きがあった。
ヴィンセントはしばらくテオドールをにらみつけていたが、やがてエレノアの腕を乱暴に放した。
「……いいだろう」
吐き捨てるように言う。
「だが、覚えておけ。お前は私の妻だ。いつまでもこんなわがままが通ると思うなよ」
エレノアは答えなかった。
ヴィンセントはもう一度、二人をにらみつけると、荒々しい足音を立てて出ていった。
扉が閉まった途端、エレノアの膝から力が抜けた。
「エレノア様!」
テオドールが駆け寄ってくる。
「お怪我はございませんか?」
「……大丈夫よ」
そう答えたものの、声が震えていた。
つかまれた腕が、まだ痛む。
「申し訳ございません。もっと早くお止めできれば……」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「あなたが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
言いかけて、口をつぐんだ。
テオドールは何も尋ねなかった。
ただ、エレノアが落ち着くまで、静かにそばにいてくれた。
「ありがとう、テオドール」
「礼には及びません。私はあなたの護衛騎士ですから」
その言葉に、エレノアはようやく小さく微笑んだ。
◇
しばらくして、エレノアは窓辺に立った。
寝室の窓からは、公爵家の広い庭園が見渡せる。
夜の庭は月明かりに照らされ、木々の影が長く伸びていた。
ふと、人影が目に入った。
ヴィンセントだった。
どうやら、怒りを鎮めるために庭へ出たらしい。
エレノアは何気なく、その姿を見つめた。
すると、別の人影が近づいてきた。
淡い色のドレスをまとった女性。
リリアーナだ。
彼女はヴィンセントのそばに駆け寄ると、何かを話しかけた。
ここからでは声は聞こえない。
けれど、ヴィンセントがひどく不機嫌そうにしているのはわかった。
リリアーナは、そんな彼の腕にそっと手を添えた。
何度もうなずきながら、優しく語りかけている。
やがて、ヴィンセントの表情が和らいだ。
リリアーナが微笑む。
ヴィンセントも笑った。
つい先ほどまで、妻にあれほど激しい怒りをぶつけていた男が。
エレノアは、呆れたように息を吐いた。
すると、リリアーナがヴィンセントの胸に身を寄せた。
ヴィンセントは彼女の腰に腕を回し、顔を近づける。
二人の唇が重なった。
「……まあ」
エレノアは思わずつぶやいた。
まさか、こんな場所で。
公爵家の庭園とはいえ、使用人が通りかかることもあるだろう。
だが、二人は周囲など気にしていないようだった。
リリアーナがヴィンセントの手を取った。
そして、庭園の奥へと歩き始める。
そこには、大きな木があった。
枝葉が広がり、月明かりさえ届かないほど濃い影を落としている。
二人はその木陰へと入っていった。
ヴィンセントがリリアーナを抱き寄せる。
リリアーナが彼の首に腕を回した。
そして、二人の姿は重なり合うように、暗がりの中へ消えていった。
エレノアは、静かに窓から離れた。
その先で何が行われているのか、わざわざ確かめる気にはなれなかった。
「……気持ちが悪いわ」
口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
妻には跡継ぎを産む義務があると怒鳴りつけ、拒絶されれば力ずくで従わせようとする。
それなのに、義妹の前ではあんなにも優しい顔をするのだ。
しかも、妻に拒まれたその足で、今度は義妹を抱き寄せている。
あまりにも節操がない。
何より、あの二人には恥じる気持ちというものがないのだろうか。
前の人生では、ヴィンセントとリリアーナの関係を知るたびに、胸が張り裂けそうになった。
どうして私では駄目なの。
どうしてあの人ばかり愛されるの。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今は違う。
もう、あの男に愛されたいとは思わない。
むしろ、二度と触れられたくなかった。
エレノアは、つかまれた腕をそっとさすった。
まだ、指の跡が赤く残っている。
これが、夫の言う愛情のない結婚なのだ。
妻を傷つけても何とも思わず、義妹との逢瀬には夢中になる。
こんな男のために、五年間も人生を無駄にしたなんて。
「……今度こそ、絶対に」
エレノアは小さくつぶやいた。
「あなたの思いどおりにはならないわ」
ただし、今夜のことでひとつ、はっきりしたことがある。
ヴィンセントは、エレノアの拒絶を簡単には受け入れない。
テオドールが守ってくれたからよかったものの、いつまでも彼ひとりに頼るわけにはいかなかった。
公爵家の主人であるヴィンセントが本気になれば、テオドールを解任することさえできるのだから。
エレノアは机に向かった。
引き出しから便箋を取り出し、ペンを手に取る。
宛先は、ヴァレンティア伯爵。
自分の父親だった。
前の人生では、心配をかけたくない一心で、実家には何も知らせなかった。
だが、今度は違う。
夫から身を守るためには、味方が必要だった。
エレノアは静かにペンを走らせた。
――お父様。折り入って、ご相談したいことがございます。
そして、少し考えてから、次の一文を書き加えた。
――どうか、ヴィンセント様には内密に、お会いできないでしょうか。
「その格好で来たのか?」 翌朝、ヴィンセントはエレノアを見るなり顔をしかめた。 エレノアは思わず自分のドレスに目を落とした。 昨日から着替えていない。離れには侍女もおらず、持ち込んだ荷物もまだ開けられないままだった。「着替えを手伝ってくれる者がおりませんでしたので」「言い訳はいい。公爵夫人なら、もう少し身なりに気を遣え」 エレノアは唇を噛んだ。 昨夜、執事が届けてくれたのは燭台と毛布だけだった。 寝台には埃が積もっていて、とても横になれなかった。結局、椅子に毛布をかけ、ほとんど眠れないまま朝を迎えたのだ。「それで、今後の待遇についてお話があるとか」 エレノアが尋ねると、ヴィンセントは椅子に深く腰掛けた。「ああ。いつまでもあんな場所で暮らしたくはないだろう?」「当然です」「なら、話は簡単だ」 ヴィンセントは机の上に一枚の紙を置いた。「これに署名しろ」 エレノアは差し出された紙に目を通した。 そこには、今後は夫の意向に従い、公爵夫人としての務めを果たすことを誓う、と書かれていた。「……これは」「お前が約束を守るなら、元の部屋に戻してやる。侍女もつけよう」「夫の意向に従う、というのは?」「わかっているだろう。もう寝室で騒ぎを起こすなということだ」 エレノアは紙を机に戻した。「署名できません」 ヴィンセントの眉が跳ね上がった。「まだ強情を張るつもりか?」「私の意思を無視して寝室に押し入ることを、やめていただきたいだけです」「お前は俺の妻だぞ!」 ヴィンセントが机を叩いた。「跡継ぎを産むのが、お前の役目だろう!」「そのために、あの離れに閉じ込めたのですか?」「お前が素直に言うことを聞けば済む話だ」 エレノアは目の前の紙を見つめた。
日が暮れ始めても、誰も来なかった。 エレノアは離れの窓から、何度も本邸へ続く小道を眺めた。 執事は寝具を届けると言っていた。食事も運ばれてくるはずだった。 けれど、夕暮れの庭園には人影ひとつない。 窓辺に立ち続けているうちに、足が痛くなってきた。 椅子には埃が積もっている。仕方なくハンカチを敷いて腰を下ろしたものの、座面から舞い上がった埃に咳き込んでしまった。「……どうしましょう」 もう一度、寝室を見回す。 日が落ちれば、明かりも必要になる。けれど、燭台はあっても蝋燭が見当たらなかった。 このまま夜になったら、真っ暗な部屋で過ごすことになる。 そのとき、ようやく扉の開く音がした。「奥様、お食事をお持ちしました」 若い下働きの娘が、盆を抱えて立っていた。「ああ、よかった。あなた、少し待ってちょうだい」 エレノアは思わず駆け寄った。「寝具はまだ届いていないの。それに、この部屋のお掃除も……」「申し訳ございません。私はお食事を運ぶようにとしか」「では、ほかの方を呼んでいただける?」 娘は困ったように視線を落とした。「離れには、ほかの者を寄越さないようにと言われております」「……誰に?」「執事長でございます」 エレノアは言葉を失った。 娘は小さな卓の上に盆を置くと、慌ただしく頭を下げた。「それでは、失礼いたします」「待って!」 呼び止めると、娘はびくりと肩を震わせた。 エレノアはその様子に気づき、声を和らげた。「せめて、明かりを持ってきてもらえないかしら。夜になったら何も見えなくなってしまうわ」「……聞いてまいります」 娘はそう答え、逃げるように離れを出ていった。 卓に残されたのは、冷めかけたスープと硬いパンだった。 水の入った杯もひとつだけ。 エレノアは盆を見つめた。 食事を運んでくれた娘が悪いわけではない。 けれど、なぜこんなことになってしまったのだろう。 やがて窓の外が暗くなり、部屋の隅から闇が広がり始めた。 娘は戻ってこなかった。 エレノアは扉の近くに立ち、廊下へ目を凝らした。 暗闇の中で、どこかの木材がきしむ音がした。「……誰か?」 返事はない。 もう一度呼びかけようとしたとき、外から足音が聞こえた。 ようやく明かりを持ってきてくれたのだろうか。 エレノアは扉に駆け寄った。
「……ここで暮らせとおっしゃるの?」 エレノアは、目の前の建物を見上げた。 公爵邸の庭園の奥に建つ、古い離れだった。 外壁には蔦が絡まり、窓枠の塗装は剥がれている。屋根の一部には苔まで生えていた。「公爵閣下のご命令でございます」 執事は淡々と答えた。「奥様には、しばらくこちらで静養していただくようにと」「静養……?」 エレノアは思わず聞き返した。 どう見ても、人が療養するような建物ではない。 扉を開けると、かび臭い空気が流れ出してきた。 廊下には埃が積もり、壁際には蜘蛛の巣が張っている。窓は汚れで曇り、昼間だというのに薄暗かった。 寝室に案内されると、エレノアはとうとう言葉を失った。 寝台にはシーツもなく、天蓋には大きな蜘蛛の巣が張っていた。 古びた布をかぶせられた家具は、触れただけで埃が舞い上がりそうだった。「……お掃除は?」「急なご命令でしたので、準備が間に合いませんでした」「では、侍女を呼んでいただける?」「本邸の使用人は、こちらへ常駐いたしません」「……え?」 エレノアは執事を見つめた。「では、誰がこの部屋を片づけるの?」「必要なことがございましたら、お申しつけください」「誰に?」「お食事をお運びする者に、お伝えいただければ」 エレノアは言葉を失った。 水差しも、洗面道具もない。 暖炉には古い灰が残り、薪も用意されていなかった。「……今夜は、どうやって眠ればいいのかしら」「寝具は後ほどお届けいたします」 執事はそれだけ告げると、一礼して部屋を出ていった。 扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。 エレノアは、ひとり取り残された。 部屋を見回しても、座れる場所さえ見当たらない。 寝台は埃だらけで、椅子には蜘蛛の巣が張っている。 これまで、部屋が汚れていたことなど一度もなかった。 朝起きれば、侍女が洗面の支度を整えてくれた。夜には湯が用意され、寝台には清潔なシーツが敷かれていた。 そのどれもが、今はない。 エレノアは寝室から廊下へ出てみた。 けれど、どの部屋も同じように荒れ果てている。 呼び鈴を探しても見つからず、誰かの名前を呼んでみても返事はなかった。 どうしたらいいのだろう。 誰に頼めば、この部屋を使えるようにしてもらえるのだろう。 エレノアは途方に暮れた。 こんな場所で一晩
鍵が外れた。 エレノアは扉から後ずさった。 昨夜はテオドールが助けてくれた。けれど、今夜は誰もいない。「エレノア、椅子をどけろ」 扉の向こうから、ヴィンセントの声がした。「お断りいたします!」「いつまでそんな真似を続けるつもりだ!」 扉が強く押され、前に置いた椅子が床をこすった。 エレノアは慌てて寝台の反対側へ回った。 もう、逃げ道はない。 やがて椅子が押しのけられ、扉が開いた。「……ずいぶん手間をかけさせてくれたな」 ヴィンセントが入ってきた。 背後には、鍵を開けた使用人が控えている。「下がれ」 ヴィンセントが命じると、使用人は頭を下げて立ち去った。 扉が閉まる。「さて、エレノア」 夫はゆっくりと近づいてきた。「今夜こそ、妻としての務めを果たしてもらう」「嫌です」「まだ言うか!」 ヴィンセントが腕を伸ばした。 エレノアは身をかわし、化粧台のそばに逃れた。「近づかないで!」「私を何だと思っている!」「私の言葉を聞いてくださらない方だと思っています!」 ヴィンセントの顔が怒りに染まった。「お前は本当に、どうかしてしまったようだな!」 そのとき、エレノアの指先が化粧台の上の小瓶に触れた。 香水瓶だった。 エレノアはそれをつかみ、床に投げつけた。 甲高い音とともに、瓶が砕け散る。「何をする!」「それ以上近づかないでください!」 エレノアは震える声で叫んだ。「これ以上無理強いなさるなら、窓を開けて助けを呼びます!」「……何?」「使用人にも、庭にいる者にも聞こえるように叫びます。公爵様が妻に何をなさろうとしているのか、皆に知っていただきます!」 ヴィンセントの動きが止まった。 彼が恐れているのは、妻が傷つくことではない。 自分の評判が傷つくことなのだ。「……私に恥をかかせるつもりか」「あなたが何もなさらなければ、叫ぶ必要はございません」 ヴィンセントはしばらくエレノアをにらみつけていた。 やがて、忌々しげに舌打ちした。「勝手にしろ!」 乱暴に扉を開け、部屋を出ていく。 エレノアは、その場に崩れ落ちた。 怖かった。 けれど、今夜も守り抜いた。 あと一年。 この調子で、本当に乗り切れるのだろうか。 ◇ 翌朝、エレノアのもとに執事が訪れた。「奥様。公爵閣下より、お伝
「明日の夜は、誰もお前を助けには来ない」 ヴィンセントの言葉に、エレノアは血の気が引くのを感じた。 この男は、何をするつもりなのだろう。 妻が拒んでいることを知りながら、護衛騎士を追い出し、誰にも邪魔されない状況を作ろうとしている。 しかも、それを隠そうともしない。「……私が嫌だと申し上げても、寝室にいらっしゃるおつもりですか?」「当然だ。お前は私の妻なのだから」「それは、夫婦だからという理由で、私の意思を無視してもいいということですか?」「またその話か」 ヴィンセントはうんざりしたように眉をひそめた。「いつまでも子供じみたことを言うな。結婚した以上、妻には果たすべき務めがある」 エレノアは、つかまれた腕に残る赤い痕を見下ろした。 昨夜の恐怖が、まだ身体に残っている。 それなのに、この男は何ひとつ反省していない。「……わかりました」 エレノアは静かに答えた。 ヴィンセントが満足そうに口元を緩める。「ようやく理解したか」「いいえ。あなたが私の言葉を聞くつもりがないことを、理解しただけです」「何だと?」「これ以上お話ししても無駄ですわ」 エレノアは夫から目をそらさなかった。「ですが、私の答えは変わりません」 ヴィンセントの表情が再び険しくなった。「……勝手にしろ。明日になれば、嫌でも自分の立場を思い知るだろう」 そう言い捨てると、彼は部屋を出ていった。 扉が閉まる。 エレノアは、その場に立ち尽くした。 怖くないと言えば、嘘になる。 けれど、ここで屈するわけにはいかなかった。 あと一年。 夫婦関係を持たずに一年を過ごせば、婚姻無効を申し立てることができる。 そのために、今度こそ自分の身体を守り抜かなければならない。 ◇「申し訳ございません、エレノア様」 テオドールは深く頭を下げた。 彼の部屋には、すでに荷物がまとめられていた。「私のせいで、このようなことに……」「あなたのせいではないわ」 エレノアは首を振った。「悪いのはヴィンセント様よ。あなたは私を守ってくれただけ」「ですが、結果としておそばを離れることになってしまいました」 テオドールの声には、悔しさがにじんでいた。 エレノアは、彼の手元に置かれた旅行鞄を見つめた。 幼い頃から、テオドールはいつもそばにいてくれた。 父親の領
翌朝、エレノアは父親に宛てた手紙を封筒に入れ、封蝋を施した。 昨夜、ヴィンセントがリリアーナと庭園の木陰へ消えていった光景を思い出す。 前の人生なら、きっと一晩中泣いていただろう。 けれど、今は違う。 あの二人が何をしていようと、もう構わない。 問題は、ヴィンセントがエレノアを放っておいてくれないことだった。 妻としての務めを果たせと怒鳴り、拒めば力ずくで従わせようとする。 あの男と同じ屋敷で、あと一年を過ごさなくてはならない。 そう考えるだけで、気が重かった。「この手紙を、実家へ送ってちょうだい」 エレノアは、朝の支度を手伝っていた侍女に封筒を渡した。「承知いたしました、奥様」「なるべく早くお願いね」「はい。すぐに執事へお渡しいたします」 侍女は丁寧に頭を下げ、部屋を出ていった。 エレノアは、ほっと息をついた。 父親は、娘の結婚を心から喜んでくれていた。 まさか、その結婚がこんなことになるとは思っていないだろう。 前の人生では、父親に夫婦の問題を打ち明けたことなど一度もなかった。 結婚した以上、夫に従うのが妻の務め。 愛されなくても、我慢するのが当然。 そう信じていたからだ。 けれど、今は違う。 父親が事情を知れば、きっと力になってくれる。 少なくとも、ヴィンセントが一方的に夫婦の務めを強要することについて、相談できるはずだった。 エレノアは窓の外を見つめた。 朝日を浴びた庭園は、昨夜の出来事など何もなかったかのように美しかった。 ◇「ヴァレンティア伯爵宛ての手紙?」 執務室で書類に目を通していたヴィンセントは、執事の言葉に顔を上げた。「はい。奥様からお預かりいたしました」 執事が封筒を差し出す。 差出人には、エレノアの名前が記されていた。 ヴィンセントの眉間に、深い皺が刻まれる。「……何を書くつもりだ?」「内容までは存じません」「貸せ」 ヴィンセントは封筒を受け取ると、ためらいもなく封を破った。 執事は一瞬だけ目を伏せたが、何も言わなかった。 手紙には、結婚初夜からの出来事が簡潔に記されていた。 夫が義妹の部屋で夜を過ごしたこと。 夫婦の寝室を共にするよう求められたが、拒絶したこと。 そして、昨夜は無理やり寝台へ連れていかれそうになり、護衛騎士に助けられたこと。 最後に